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嘉数高台公園 嘉数集落の北東にある標高92mの石灰岩からなる高台。ここからは伊佐浜や普天間飛行場・真栄田高地(浦添城跡)・西原高地などの四方が眺望できる。

嘉数高台公園の戦跡
 1945(昭和20)年41日、沖縄本島の中部西海岸から上陸し、南下した米軍は、嘉数を中心とした戦線で、待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘をはじめます。戦闘の末に、日本軍は撤退し戦線は浦添・西原・首里そして南部方面へと移りました。 嘉数住民はテラガマ、チチフチャーガマなどの洞窟に避難していました。日米両軍の戦闘がはじまる前に、南部方面に避難した人と嘉数に残った人がいましたが、いずれも戦闘に巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなりました。 嘉数周辺と本公園には、住民が避難した洞窟や日本兵が利用した「ミーガー」、戦闘で使用された「トーチカ」、戦闘を物語る「弾痕の塀」、沖縄戦で亡くなった嘉数住民の「嘉数の塔」、戦死した京都出身者の「京都の塔」などの慰霊碑が多数点在しています。(説明書きより)
            平成
231月 宜野湾市

弾痕の塀(だんこんのへい)

 戦前の嘉数は、家屋敷や道路が碁盤状に整備され、田畑に囲まれたのどかな集落でしたが、日本軍が駐屯し陣地構築を始めると、軍靴の音が響くようになりました。

 米軍上陸後の嘉数は、日米両軍の主力が激しい攻防戦を繰り広げた場所となり、住民はもとより、住みなれた家屋敷なども大きな被害を受けました。

 戦場となった嘉数では、日米両軍の銃弾・砲弾が雨あられのごとく降り注ぎました。この弾痕の塀は、それを物語るものです。
(説明書きより)               
                 宜野湾市

陣地壕(じんちごう)

 嘉数に駐屯した日本軍は、嘉数高地を中心とした周辺地域にいくつもの陣地壕を築きました。

 陣地壕の構築は、1944(昭和19)年の夏頃から開始されたようで、朝から夕方までの作業が毎日続けられました。兵士だけでなく、嘉数や周辺地域からも、老人や女性を含む多くの人々がかりだされました。

 陣地壕は、石灰岩をくりぬいてコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の坑木の跡もあります。嘉数高地には日本軍の主軸地が置かれたために、このような陣地壕が無数に構築されました。
(説明書きより)

                宜野湾市

トーチカ
トーチカとは、ロシア語で「点」や「拠点」を意味する軍事用語で、防御の中心となる陣地のことです。このトーチカは鉄筋コンクリート製で、厚さは最大1mあり内部は2m四方で、大人が3名ほど入れる広さです。北側の比屋良川に向けて、襲撃するための銃眼(図中の青部分)が2か所あり、そこから小銃や機関銃などを出して、米軍を攻撃しました。
 トーチカには、弾痕が無数にあり、鉄筋がむき出しになるほど破壊され、激しい戦闘を物語っています。裏側の開口部は、日本兵が出入りするためのものです。
(説明書きより)
    
                  宜野湾市

嘉数展望台から望む普天間基地
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