沖縄の観光 南部

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沖縄の観光ガイド

沖縄の観光

南部

沖縄の観光といえば、やはり綺麗な海でダイビング、ゆったりと流れる時間の中で自 然を感じ心を癒す…といった感じであろうか。しかしここ 沖縄は他府県とは違った文化、歴史が多くある。特に南部には戦争時の悲惨な過去を忘れてはいけない、同じ過ちを二度と繰り返してはいけない、平和を追い求める姿を多くみる事ができる。
 沖縄に観光に来た際には、沖縄の過去の姿をもぜひ見て欲しい。








平和記念公園(糸満市摩文仁614-1)098-997-3844

この公園の丘の中腹に洞穴があり昭和20年6月牛島司令官が自決したという話がある。戦闘は終了したが、その後も犠牲者が続出したようです。丘の上には、「沖縄師範健児之塔」「魂魄之塔」などの慰霊塔(納骨堂)のほかに各都道府県の塔が集中しております。今では、戦跡観光コースとなっており、観光客がいつも絶えません。また、そこには、山田真山という彫刻家が作った「平和記念像」があります。この像は沖縄戦の悲劇を二度と繰り返すことのないようにと平和を念願して、20年の歳月をついやしてやっと完成させた慰霊像です。6月23日の慰霊の日には、この丘で合同慰霊祭が行われます。


健児ノ塔
(糸満市摩文仁)098-997-4123

沖縄戦で、日本軍と住民は南端の摩文仁の丘まで、米軍に追いつめられた。前方は海で、もう後退ははできない。サンゴ岩礁はいたる所に洞穴があり、摩文仁の兵下の洞穴には、健児隊として斬り込み戦死・自決した師範学校生307人を祭る師範健児ノ塔が立っています。









平和の礎<いしじ)>
(糸満市字摩文仁614-1)098-997-3844(平和祈念資料館)

「命どぅ宝」とは、命というものは最高の宝物であるという意味である。沖縄の小中高校で平和学習をする時に必ず耳にする言葉であり、そして沖縄のおばぁ、おじぃがよく使う言葉である。沖縄は歴史の中で命の尊さ、平和の大切さを学び、それを国内のみならず、海外すべての人々へ伝えようとしている。
平和の礎は、国籍、軍人、民間人の区別なく、沖縄戦で亡くなったすべての人の氏名を刻んだ記念碑であり、沖縄の平和のこころを世界に伝える役割を果たしている。
沖縄の観光に来た際にはぜひ平和の礎まで足を運び、沖縄の平和の心を感じ取って欲しい。


ひめゆり平和記念資料館(糸満市字伊原671-1)098-997‐2100

第二次世界大戦で、米軍が沖縄に上陸し、激しい地上戦が繰り広げられている中、沖縄の中等学校の生徒たちが動員され戦場に送りこまれた歴史がある。
そのなかで有名なのが「ひめゆり学徒隊」である。
ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等学校の女生徒たちであり、南風原の沖縄陸軍病院に従軍看護婦として動員されたが、生徒、教師合わせて136人がこの戦争で命を奪われた。
平和記念資料館には、ひめゆり学徒の記録、遺品、生存者の証言、資料などが展示されている。
右の写真は平和記念資料館に併設されている平和祈念堂。

 

ひめゆりの塔
(糸満市伊原671-1)098-997-2100
沖縄戦で従軍看護婦として犠牲になった「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔である。
戦時下、第一高女と師範学校女子部は、日本軍の要請で軍看護要員としてひめゆり学徒隊を編成、南風原陸軍病院の任務についた。負傷兵の手当・食事の世話・埋葬などに従事。米軍の進撃により、そこから南部に敗走する日本軍と共に撤退、それぞれの壕に分散した。ひめゆりの塔がある洞穴には40人の生徒職員が入っていたが、ガス弾が投下され、生徒36人は死亡。ほかの編成隊も砲弾で死亡・自決し、ここに職員・生徒226名を合祀。ひめゆりの名称は、両校歌の乙姫・白百合からとった。




旧海軍司令部壕(豊見城市字豊見城236)098-850-4055

旧海軍司令部壕は、太平洋戦争中、沖縄方面根拠地隊司令部のあったところである。地下壕には、司令官室・幕僚室・作戦室等がそのまま保存されており、内部を見学することができる。
戦争時、旧海軍部隊はこの地を守るため、アメリカ軍と激戦を繰り広げた。しかし、昭和20年六月に力尽き、司令官は壕内で自決。4000人の兵士が命を落としたといわれている。



白銀堂
(糸満市字糸満23)098-840-8137(糸満市役所))

糸満にある御願所。漁民の航海の安全と豊漁を祈るため、旧正月には賑わいをみせる。
白銀堂には隆起珊瑚があり、ここには「意地が出たら手を引け、手が出たら意地を引け」という沖縄の諺にまつわる伝説がある。



幸地腹門中墓<こうちばらもんちゅうばか>糸満市字糸満

糸満の旧家、幸地家一族の共同墓である。
沖縄では、祖先を崇拝し、亀甲墓など立派で大きい墓が多く存在するが、この幸地腹門中墓は特に規模が大きいことで有名。ここには2500人の人々が葬られている。敷地内には、本墓と四つの仮墓があり、亡くなった後その墓に入るためにはさまざまな厳しい条件があるらしい。




受水・走水<うきんじゅはいんじゅ>南城市玉城百名

玉城村にある二つの泉である。
稲作発祥の地といわれている。
「琉球国由来記」によれば昔、アマミキヨがニライカナイ(海の向こうの理想郷)から稲の種を持ってきて玉城親田、高マシノシカマノ田に植えたといわれている。
この地は東御廻いの排所として霊城となっており、旧正月には田植えの行事「親田御願」が行われている。






知念城跡
(南城市知念)

「おもろ」のなかで、神が初めて祈りを始めた城といわれている。
二つの城から成り、城からは、神々の島「久高島」を望むことができる。



玉城城跡(南城市字玉城)
玉城村玉城に位置する。
伝説では、沖縄の始祖アマミキヨが築いたといわれている。島尻郡誌によれば城主はアマミキヨの子孫、天孫子であった。と記述されている。
城跡は、一の郭、二の郭、三の郭の三つの郭からなる段階状の山城で天然の要害の地に築かれている。
城壁は一の郭のみ原型をとどめており、二の郭と三の郭の城壁は、戦後、米軍基地建設の骨材用として持ち去られ、現在はかろうじて根石が残るだけである。
 一の郭は、自然岩をくりぬいた城門(左の写真)を構え、城内には「天つぎあまつぎの御嶽」が祀られている。



糸数城跡(南城市玉城糸数)
玉城村糸数に位置し、沖縄本土復帰と同時国指定の史跡となった。
南部の城跡のなかでも、城壁の石積みや城構えが群を抜いて優れているといわれている。



斎場御嶽<せーふぁうたき>(南城市知念久手堅)
琉球王国最高の聖地。琉球民俗の祖アマミキヨが国はじめに造った 七御嶽の一つと言われている。
 御嶽には六つの神域があり、写真は、そのうちの一つ三庫理(さんぐーい)である。
この三角形の空間を進むと、海の向こうに神の島 と言われる久高島を望むことができる。

 

 






大里城跡公園(南城市大里西原)
大里城跡は、大里村字西原の北側、標高約150mの琉球石灰岩の丘陵台地に形成されている。北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。

 この城跡は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王・島添大里按司によって築城されたと「中山世鑑」のなかに記されている。また尚巴志が最初に攻略した城でもあり、後に三山統一のきっかけともなり歴史的に重要なところである。 城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連敦式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。
 1991年の村内遺跡分布調査の際試堀した結果、本丸跡から掲袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。     平成4年1月 大里村

















豊見城城址公園
沖縄が三つの大きな勢力に分かれていた三山分立時代(1314年〜1429年)、南山王の一族である豊見城按司(領主の意)の居城跡。那覇の市街地が眼下に広がり、ここから眺める夜景も見逃せない。


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