沖縄戦

沖縄の歴史

琉球処分 沖縄戦

沖縄の歴史(4)


琉球処分沖縄戦
 明治政府の下、琉球が日本の近代国家のなかに強制的に組み込まれ、明治5年に琉球国から琉球藩となり、同12年に沖縄となった。

この一連の過程を琉球処分という。

明治政府が廃藩置県後、あえて琉球藩としたのは清国への遠慮のためである。

しかし、この頃たまたま起きた事件を契機に台湾出兵をし、沖縄が日本領であることを清国に認めさせた。

明治8年日本政府は藩政の改革を行い、同12年親清派や王族の抵抗をおさえ、強制的に琉球藩を廃して沖縄県を置いた。

太平洋戦争と沖縄戦


太平洋戦争でここ沖縄は、日本で唯一地上戦が行われた地である。

日本政府は、
1944年(昭和19年)、沖縄を本土の防波堤にするため、たくさんの日本軍を沖縄に送り込み、アメリカ軍の侵入に備えた。

しかし米軍の攻撃を押さえ込むことは出来ず、空、海からの攻撃、進入により沖縄戦では多くの死傷者を出した。

一般の庶民も戦場にかりだされ、中学生や師範学校の生徒たちも健児隊として戦闘に参加した。

女学生は従軍看護婦として動員された。




 鉄の暴風
アメリカ軍は、1945年(昭和20年)3月に慶良間諸島に上陸し、続いて4月に沖縄島中部の嘉手納沿岸に上陸してきた。

この
3ヶ月間の沖縄は、アメリカ軍の陸・海・空から爆弾をうちこまれ、

島全体が激戦場となり、「鉄の暴風」といわれる攻撃を受けた。

この沖縄戦による日本の犠牲者は、約
20万人といわれている。

戦後、この激戦の犠牲になった人々の霊を慰める為に、沖縄島南部には「ひめゆりの塔」をはじめ慰霊塔が数多く建てられ、
摩文仁が丘には、国内ほとんどの府県の慰霊塔が建てられている。



戦後の沖縄

終戦直後の沖縄

日本がポツダム宣言を受け入れ降伏すると、米軍政府は沖縄の統治を強化するため軍政府をつくった。

琉球政府は、形式的には立法・行政・司法の三権の政治的しくみを整えていたが、

実際は米国民生府が絶対的な支配権をもっていた。

琉球政府の行政主席が住民によって選ばれるようになるのは、ずっとあとのこと。

1948年には、通貨が"B円"と呼ばれる軍票に統一され、商業活動も許されるようになる。

その頃から人々の生活にも活気がみられようになった。

基地のなかの沖縄

1951年(昭和26年)、サンフランシスコ平和条約により、日本は独立するが、

沖縄は、その条約によって日本から切り離され、ひき続きアメリカの統治下に置かれる。

その条約によりアメリカは、沖縄の基地をさらに拡大していった。

軍事基地の拡張に伴って、土地を取り上げられた農民は、安い賃金で基地労働者として働いたり、

基地に近い街では、米兵相手の飲食店などをはじめたりした。

多くの住民は、基地反対を叫びながらも一方では、これといった仕事が無く米軍基地で働かねばならないという矛盾をかかえることになっていった。

戦争によって産業が破壊された沖縄の貿易収支は、大変な赤字だった。

この赤字は、軍用地料や基地労働者の賃金などでうめられた。

このようなことから、沖縄の経済は、基地経済と呼ばれている。

1958年(昭和33年)、アメリカは、これまで沖縄の通貨としていた"B円を、ドルに切り替えた。

そのねらいは、沖縄の産業をおこし、経済成長を図るためであった。


沖縄の日本復帰


♪「固き土を破りて 民族の怒りに燃える島〜沖縄よ. 我等と我等の祖先が血と汗をもて守り育てた 沖縄よ〜♪」

悲惨な沖縄戦を体験した沖縄県民が、平和な暮らしを願い、同じ民族として、日本に復帰したいとの民族感情から祖国復帰運動が高る。

そして、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄県が 日本に復帰。

27年間に及ぶアメリカ支配から解放され、日本の一県として生まれ変わった日。

その日の那覇市の国際通りには、「沖縄県」と書かれた看板が立ち並び、「日の丸」の旗が掲げられた。

生活のなかでは、通貨がドルから円へ、車は右通行から左通行に一斉に変わった。

しかし、多くの県民は、複雑な気持ちでその日を迎えていた。

それは、県民の復帰への願いは、核も基地も無い、平和で豊な明るい沖縄の姿であったからだ。

復帰後も依然として変わらぬ沖縄の米軍基地。まだまだ戦後は終っていないのだろうか。

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 2.薩摩の琉球侵入
 3.新しい政治改革
 4.琉球処分・沖縄戦






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