沖縄おすすめ情報                                                                        沖縄の魅力と沖縄の歴史

八重瀬公園白梅学徒看護隊の壕 住所:八重瀬町富盛1607
『八重瀬公園』内には、「八重瀬グスク跡」や、沖縄戦の際に「白梅学徒看護隊」が配備された野戦病院壕跡があります。
公園の入り口にある八重瀬教育委員会の記した「白梅学徒隊」に関する説明書より、戦争がいかに悲惨なものか知ることができます。僅か十代後半の年齢で戦禍に散った、沖縄県立第二高等学校の女子学徒、戦争によって掛けがえのない人生を絶たれた彼女たちの死、胸が締め付けられる思いです。「命の尊さと平和の大切さ」、二度と過ちを犯してはなりません。
八重瀬公園
24師団第一野戦病院と白梅学徒隊
[次世代に遺すもの それは平和]
 沖縄県立第二高等女学校の4年生56人は、第32軍司令部の要請を受け、194536日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講していた。同月23日、沖縄本島南部に米軍の艦砲射撃が始まり東風平国民学校での看護学習は18日間で打ち切られた。翌324日から、第24日から、第24師団第一野戦病院に緊急配置され、64日までの73日間、ここ八重瀬岳の本部壕と手術場壕、他に、八重瀬町字新城(あらぐすく)の新城分院、同町字東風平(東風平)の東風平分院で、それぞれの補助看護婦として傷病兵の看護に当たった。
《本部壕での白梅学徒の忍務》
 本部壕は、現在地を左に下がって右手側にあった。収用能力は500人と言われたが、現在は落盤のため壕口は塞がれ壕全体は確認できていない。
 324日、56人全員が本部壕に配置されたが、体調不良や家庭の要望などで数日の間に10人除隊した。 本部壕には既に内科患者が収用されていたが、伝染病患者(赤痢、結核)なども混在していた。
 日中は攻撃が激しく負傷者の救出は困難で、夕刻から搬入される負傷兵は日々増加し、軍医と正看護婦・衛生兵による懸命の治療が行われた。 学徒の任務は食事の世話、排泄物の処理、水汲み、洗い物などの雑用であったが、学徒は野戦病院にはなくてはならない存在であった。

《重症兵が搬入された手術場壕》
現在地の小階段を上がって、奥の方が手術場壕趾である。この壕は、コーラル質のもろい岩盤のため崩落の危険があるとして、現在は八重瀬町によって「立ち入り禁止」とされている。 当時は本部壕を「下の壕」、この手術場壕を「上の壕」と称していた。この壕は幅が2メートル、奥行が30メートルほどの小さな一坑で、通り抜けが出来る構造になっている。壕入口の右手に手術室、左手の壕壁に添って粗末な2段式の病床があった。患者収用能力は70人ほどであった。
 ここの上の壕には、4月中旬に5人の学徒が配置された。任務は食事・排泄の世話に加えて、本部壕から食事を運ぶ「飯上げ」、手術時の証明係りに「ろうそく持ち」があり、切断された手足や汚物の処理も学徒の任務であった。
 連日、夕刻から搬入される重症兵の傷は既に悪化してウジが群がり、壊疽(えそ)が確認されるなど一刻を争う状態であった。手術は夜を徹して行われ、手足の切断や弾丸の摘出などの荒療治が行われた。
 凄惨な手術場面にひるみがちだった学徒たちは、日を追って任務を自覚し不眠・不休で看護に励んだ。
 5月中旬頃には薬品も包帯材料も底を尽き病院の機能は失われた。治療をままならず退院する兵もなく病室は満杯であった。民間人負傷者の搬入は皆無だった。

《解散後の白梅学徒の犠牲》
 戦況の悪化により64日、白梅学徒たちに解散命令が下った。新城分院(ヌヌマチガマ)と東風平分院に配置されていた学徒たちは、前日の3日に本部壕に呼び戻され、翌4日には手術場壕勤務の学徒たちも招集されて、病院長から白梅学徒全員に解散命令が下された。(4月1日に米軍が沖縄本島中部西海岸に上陸、既に首里が占領された)との信じ難いニュースの後「自分で身の安全を守れ」と本島南部へ下るよう言い渡された。
 第24師団第一野戦病院は、八重瀬岳から糸満市真栄里(現在の白梅塔のガマ)に撤退し、一部の白梅学徒も合流したが616日頃に終焉を迎えたとされている。 解散直前まで勤務していた46人の学徒たちは、鉄の暴風が吹き荒れた地上戦に巻き込まれ、途中除隊した学徒の犠牲者も含めて22人が戦没した。僅か10代半ばの年齢で、かけがえのない人生を絶たれ彼女たちの無念と悲運を、沖縄戦の真実としてここに後世に伝え遺す。以上は、白梅学徒たちの証言と体験記によってまとめた記録である。 二高女の学徒隊は、校章の白梅マークから、戦後は「白梅学徒隊」と呼ばれている。
2013年3月設置  沖縄県立第二高等女学校
八重瀬町教育委員会  白梅同窓会

八重瀬グスク(富盛城)
八重瀬グスクは一名富盛城とも呼ばれ島尻の世の主、八重瀬の按司の居城であったと伝えられ、今から約
600年前に築かれたのではないかといわれている。
 このグスクは標高105メートルから125メートルの間にあり八重瀬岳とは地形的に上・下の位置関係にある。グスクの面積は4,231平方メートルで内部には石で囲まれた郭があり、本殿跡・蔵当(クラントウ)・物見台といい伝えられたところがある。
 現在でもグスク内には「城火の神」「ナカジク火の神」「グスク井泉」と呼ばれる3カ所の拝所・井泉があり、又「カニカマルー」の伝説や民話などが残されており村人たちの深い信仰の場となっている。

平成1821
八重瀬町教育委員会

スポンサードリンク