沖縄

   琉球の焼物の歴史 沖縄の土器

1.土器時代

 土器焼物の歴史の中でとりあげるのは妥当ではないかも知れないが、土と火と水を使って器物を造るという基本的な原則が一致するということと、いま一つは、その次の時代との関連において土器をとらえ、それに続いた時代の現象解明に資する意味で特にとりあげたものである。

 無土器時代はさておき、土器をつくった人々がいつ頃から沖縄に現われたか、戦後考古学の研究が盛んになり、つぎつぎと学問的疑義が解明されつつあるが、これまでの研究では土器がつくられるようになったのは大体今から3500年位前(B・C1500年)までさかのぼるものとされている。これは知念村志喜屋の熱田原貝塚から出土した炭化物を現沖縄考古学会会長の高宮宏衛氏が1960年頃米国のUCLA(ロスアンゼルス、カルフォルニア大学)との共同調査の際、同大学がそれに含まれている、カーボン十四(放射性炭素)を測定して出した年代で、一応科学的な裏付けがなされたものである。

 これまで、沖縄で発見されている二百余の貝塚中、伊波貝塚、荻堂貝塚、嘉手納貝塚等より出土した土器片は、前述の熱田原のものより更に古いものと考古学界では推定しているが、カーボン十四による絶対年代はまだ出されていない。

 この頃つくられた土器は、口の広い甕型の土器が多く、その形態や文様がいくぶん本土の縄文土器に似たところから、琉球縄文土器と仮称されている。

 口を広くつくるということは、人類が土で、物を入れる容器をつくる場合の最も初歩的な段階を意味するものではないだろうか。

 この時代には勿論轆轤(ろくろ)はなく、製作の方法は手?(てこね)や巻上、あるいは輪積(わづみ)の方法によってなされ、焼く時も窯はなく、器物を地上に置いてその上から薪をかぶせて焼いたものと考えられる。従って火度も低く、焼き締められていないため、非常に脆い。

 どこの国でも、大体同じことが言えると思うが、土器時代というのは、焼物史上、新しい技術の発見乃至は改革により、真の意味の焼物が生まれるまでの、永い胎時期のようなものであり、沖縄もその例にもれずこの土器の時代が、およそ2800年間も続いたのである。民族史の上からみると、いわゆる原始時代で、文化史的にも同様のことがいえると思う。

 その間、地方的な差異や時間的な差異によって、器物に多少の変化は認められるが、分類の上では依然として土器の範囲にとどまっている。

 沖縄では、この土器時代を脱するのは十四世紀の中期あたりに入ってからで、それも変則的な脱皮が行なわれたのである。

 変則的というのは、あまりにも技術的にかけはなれた中国や、安南、シャムあたりの陶磁器が入ってきて、土器しか知らなかった沖縄の人達の目を眩惑し、焼物をつくることを殆んど放棄させた空白の時代が続くからである。

 勿論これは完全な空白ではなく、外来のもので間に合わない分は、従来の土器製法にいくらかの変化をみせながら、つくり続けられただろうことは、古城址などから、外来の陶磁器片に混ざって、その頃つくられたものと推定される土器片が発掘されることでもわかる。ただ、その比重が外来の陶磁器が圧倒的に大きく、積極的に、よい焼物をつくろうとする内部における志向あるいは衝動というものが古城址出土の土器片からは、感じとれないということである。

 それは土着の焼物に対する外部からの刺激が余りにも強すぎて、それに対応する意志が萎縮してしまったともいえる。

 そういう意味の空白時代である。

 本土の場合だと、数千年に及ぶ縄文土器時代という胎児期から、外部からの影響を受けながら、技術的進歩をみせつつ、弥生式土器時代(B・C、2世紀〜A・D、四、5世紀)、古墳時代の土師器(A・D、4、5世紀)、それに続く須恵器時代(又は祝部式土器の時代)という段階を経て、今日につながる本格的な陶磁器が、これまた、外部からの技術導入でつくり出されていくのである。つまり胎児期から胎動期へ、そして誕生という段階をふんでいるのである。

 このように、本土の焼物の発展過程にもみられるように、焼物に限らず、文化とか文明というものは、外部からの刺激(影響)がないと、停滞するか、あるいは停滞しないまでも非常にゆるやかな変遷しかみられないものである。

 世界の文明史上、アメリカ大陸のインディヤン文明がその好例の一つとしてとりあげられよう。

 アメリカの学者達によると、彼等はB・C2000年頃、民族の大移動があってアジア大陸からベーリング海峡を経て、北アメリカに至り、次第に南下して定着したものと考えられている。そして中央アメリカのアステック文明とマヤ文明、南アメリカのインカ文明が築かれたが、同一系統の文明をもった民族であったことと、1492年にコロンブスが同大陸を発見するまで、地理的に孤立し、他の文明との交流又は刺激がなかったことの2つの大きな遠因によって停滞していた。

 具体的な例を上げると、彼等はヨーロッパ人が入ってくるまで「車輪」というものを知らなかったという事実があり、また、焼物(土器)も窯をもたず、殆んど地上焼であったことなどがあげられる。

 余談になるが、筆者は先年アメリカ政府の好意で研修のため同国の美術館、博物館めぐりをしたが、その際ミルウォーキー公立博物館で、カナダのリヴァサイドインディヤンの十数点の土器を見て自分の目を疑った経験がある。それが、日本の縄文土器とそっくりだったからで、最初は、ははあん、参考資料として縄文土器も飾ってあるなあと軽く考えていた。しかし、説明書を読んでびっくりしたのである。案内の学芸員にそのことを話すと、アメリカの考古学界でもそうみているとのことであったが、その比較研究はまだアメリカでも日本でも具体的には進められていないとのことであった。民俗学的に比較研究しても非常に興味のある問題だと思う。これ一つをとってみても、彼等がアジア大陸から渡ってきたことを裏付ける好個の資料になると思われる。

 このように、文明の交流が盛んに行なわれたところと、孤立したところでは、4000年の間におよそ二〇〇〇年に近いひらきが出ているということは、他文明または文化圏との交流が、その発展のために如何に重要なものであるかを如実に物語るものであろう。

 しかし、それは交流というものが、ほぼ対等に行なわれるか、さもなければ影響を受ける側が、それに対応出来る素地が充分整えられている場合であって、外部からの刺激乃至は影響が圧倒的に大きい時は、受ける側のそれは停止するか、あるいは新しく入ってきたものに呑まれてしまうのである。

 これまた如実に示しているのがヨーロッパ文明に対するアメリカのインディヤン文明の関係であろう。これに似たような現象は中国文化に対する北方文化の関係でもみられる。

 このような現象が、沖縄の焼物の歴史の中でも起こった。つまり、沖縄でも須恵器などがあるところからすると、他文化圏との接触の跡も僅かながら認められはするが、四囲海洋に囲まれているため、大きな技術的変革をもたらす交流もなく、原始時代から歴史時代を迎え、その時点で、高度に発達した中国の陶磁器に接して琉球の土器は段階をふんだ発達を停止してしまうのである。

 しかし、焼物をつくろうとする内的な欲求は、くすぶりながら継続していっただろうことは、外国の陶磁器が入り始めた、13世紀中期に、「高麗瓦匠造」の銘のある瓦が焼かれたり、14世紀初頭から、同中期にわたって同系統の瓦が、それぞれ半世紀位の間隔をおいて焼かれていたことをみてもわかる。ただその内面で、くすぶり続けた欲求が、具体的に陶器をつくる技術と結びつくまでには、かなりの年月を要した。それは、いろいろな歴史的事象から推して、16世紀に入ってからであった。

 では、土器時代につづく輸入陶磁器の時代というのは、どんな歴史的背景をもっていたか、琉球の焼物との関連において眺めてみよう。

トップ


琉球の焼物の歴史
 はじめに
 1.土器時代
 2.輸入陶磁器時代
 3.琉球陶器時代
壷屋の村
近、現代沖縄の焼物
南蛮焼きについて






ページ上部へ ページ上部へ