沖縄の焼物

   近、現代沖縄の焼物

沖縄の焼物の歴史

近・現代沖縄の焼物

近代に直行する前に、今一度沖縄の焼物の歴史の概要を振りかえってみたいと思う。
沖縄の焼物の歴史は、中国や朝鮮または日本の焼物の歴史とは較ぶべくもないが、それでも数百年の軌跡を辿ることができる。

沖縄の焼物が原始的な土器から脱して、現代の陶器の母胎となった焼き締めの須恵器に接したのは12世紀を前後する頃からだといわれている。その頃の多くの遺跡から、おびただしい数量の須恵器の破片が発掘または表面採集されているが、今のところ沖縄の須恵器は奄美を含む南九州からの移入品としてとらえられている。近年奄美大島では須恵器の窯跡が発見され、大きな話題のひとつになっているが、沖縄でもその可能性がないとはいえないだろう。というのは、沖縄では焼かれてなかったという確固たる証拠があるわけでもないからである。

近世(薩摩入り後)に入ると、中国は勿論、朝鮮系の技法(上焼物)も導入され、本格的な焼物生産が行われるようになった。

初期の段階における技術の導入は、もっぱら外国の技術者を招聘する形で行われているが、薩摩入り後は内外事情の変化に伴い琉球から陶工達を派遣して海外の技法を摂取している。また国内にあってもこれらの陶工達により新しい素材や技法の発見や開発が間断なく行われ、近代に入る頃には、沖縄の焼物は、ゆるぎない伝統を確立していたといえる。

この伝統は明治維新を経て、どう継続され、またどのような変化をとげていったか、というところから本題にはいっていきたいと思う。

1.近代の焼物

 (1)、明治維新と沖縄の焼物

明治維新という日本本土における大きな政治変革は、否応なしに琉球王国も巻き込んでいく訳であるが、この政変によって沖縄の焼物はどのような影響を受けたのであろうか。

先ずその伝統の継続という視点からみていきたいと思う。

 明治新政府に基盤づくりとなった廃藩置県が、沖縄で実施されたのは、本土より八年おくれて明治12年であった。これによって琉球王国は幕をおろし、新しく沖縄県となったわけであるが、新時代の到来は沖縄の製陶業界にとっても由々しい問題を提起していった。つまり近世以降、首里王府の厚い庇護・指導を受けていた壺屋が、自由競争の荒野に放り出されたことを意味するものであったからである。往時の壺屋には、王府から与えられた拜領窯や拜領地(採土地)等もあり、また、すぐれた陶工等は筑登之や親雲上の位を授けられて土分にとりたてられたものであった。

このことは焼物に限らず。その他の工芸産業、つまり紅型、織物、漆器などにも等しくあてはめることのできる事象であったのである。

とはいえ、明治12年を前後する頃までは、沖縄の焼物市場で壷屋と競合する外来物はわずかな唐物や伊万里焼、あるいは南蛮焼以外はほとんどみあたらず、従来と比較して大きな変化はみあたらなかった。したがって技術面での伝統も堅実に踏襲されていたといえよう。ただ素材分野で僅かながら新しい釉薬の導入があった。それは王朝時代から伝統的に使用されていた呉須にかわって、新しいコバルト釉が壷屋に入ってきたことである。

王朝時代の上焼物の釉薬は、灰釉や鉄釉が主体で、また最も古く、つぎに緑釉(オーグスヤー)と呉須、赤絵などであった。

呉須は主として中国から輸入されたが、沖縄本島南部の具志頭村でも微量ながら産出し「具志頭クルーグヮー」と呼ばれて壷屋では重宝したといわれる。これは具志頭村で採れる白色陶土に付着している黒褐色の鉱物で、コバルト、マンガン、鉄等を含み、そのため、コバルト本来の鮮やかな青の発色が劣っていた。これが、1735年スウェーデンのブラントという学者がコバルトだけをとり出し、それが陶磁器やガラスの着色材として用いられるようになると、前述の天然呉須は次第に姿を消していくのである。

コバルトが日本に入ったのは江戸末期で、沖縄には明治以降に導入されたといわれる。

このように明治20年代までは、壷屋の焼物は技術、素材面からみて、コバルトが使われはじめたという以外には大きな変化はなかったといえる。

(2)、変様する壷屋の焼物(明治20年代以降)

明治20年代以降、特に大正時代に入ると壷屋の焼物に大きな変化があらわれてくる。そのきっかけをつくったのは、上焼では本土の陶磁器商人達の来島であり、荒焼では明治37、8年の日露戦争時の景気であった。

壷屋の古老達の記憶によると、最初に来島した陶磁器商は鹿児島出身の増他耕造という人で、那覇で店を構えたのは明治25年頃からではなかったかという。

大正時代に入ると、黒田利平庵、青木、二ノ宮、田中といった陶磁器商達が相ついで来島し、那覇で開店したのであった。また地元出身の護得久朝章や崎山嗣昌等もこの業界に加わっていった。

これらの商人達の中には、自ら作陶したり、器形の図案を描いたりする経営者もあり、また取り扱う商品も陶磁器だけに限定せず、幅広く漆器や、織物も扱っている店もあり、その意味では彼等は沖縄の工芸産業のよき理解者として、その市場開拓に大きな役割を果たし、多大の貢献をしたともいえる。

反面、彼等は本土から安価で丈夫な磁器類を沖縄に移入し、沖縄の家庭における食器類に大きな変革をもたらしたのであった。そのあたりの事情を象徴的に物語っているのが往時庶民の間で重宝されはじめた「スンカン」と呼ばれた磁器製のマカイであろう。これは昭和初期頃までには完全に壷屋のアラマカイを一般家庭から駆逐していた。スンカンは四国で焼かれた磁器碗だが、移入された数がおびただしく、今日でもそれを沖縄の焼物と錯覚している人々が存在する位なのである。

スンカン以外の碗類や皿類、急須や湯のみ類、酒器類などの磁器製品も大量にもたらされた。このような状況下では壷屋の上焼物は衰微の運命を辿らざるを得ず、伝統技術の継続の上からも危機に直面したのである。市場の喪失からくる生産の不振は、上焼屋に貧困をもたらし、これらの陶磁器商人達から前借りをしながら、かろうじて生産をつづけていくという悪循環がくりかえされた。こういう状況の下で、これら陶磁器商人達のデザイン面や技法面での発言権も強くなり、壷屋に新しい傾向のデザインや技法が持ち込まれてきたのである。その代表的なものが技法面では、「盛り付け」(タックヮーサー)や「掻き落とし」(模様部分を残して地をけずり落として浮彫り風にする技法)、「透し彫り」や掛分け」などであり、成形面では扁壷、角瓶、花瓶類、チンナンチューカー(カタツムリ型の茶家)などであった。今日はやりの魔除けの置獅子が大量につくられたのも、そういった流れのひとつであった。これらの新しい形や加飾技法は、陶磁器商達からの注文だったとはいえ、壷屋における作陶の主流の観を呈するまでになっていた。このような変容に拍車をかけたのが、磁器食器類の導入と生活形態や生活思想の変化であった。

ここに至って二百年余にわたる伝統的な様式や形式が次第にかげをひそめていくのである。この新しい現象によって伝統的なものが影をうすめていったということは、ある意味ではマイナス面であるが、従来の壷屋の陶器の枠を拡大したととらえるとプラス面になろう。というのはこの流れが戦後の壷屋陶器の主流を形成しているようにみうけられるからである。

荒焼の場合は、上焼の場合と違って、これら陶磁器商達との取引上の関係はほとんどなかった。加えて県内の荒焼の市場は移入磁器類に荒らされることもなく健在だったのである。荒焼が日用食器類でなく、大方貯蔵容器類だったからである。

荒焼はまったく別の要因でその伝統技法の崩壊の危機に直面したのであった。

それは明治37、8年の日露戦争を前後する頃の景気の到来で、壷屋では実に30余基の荒焼窯が築かれ、その景気は天をつく勢いだったといいつたえられている。製品は主として軍向けに移出された泡盛の容器としての酒甕類で、一窯実に1000個単位で焼いたというから如何に大量に生産されていたかがわかるというものである。

 このような大量生産がもたらしたものは、いうまでもなく粗製濫造からくる賃の低下であった。

 日露戦争後に間もなく襲ってきた不景気の波をもろに受け、荒焼もまた衰微の一途を辿るのであるが、この頃荒焼?人の中から瓦工に転向していくのが多かったともいわれている。

一旦くずれてしまった荒焼の伝統技術も元に戻す術もなく沖縄戦を迎えたのであった。 

県側も、このように衰退傾向が著しくなった壷屋の陶器のみならず、漆器、織物、紅型等の工芸界の状況にかんがみ、昭和二年「沖縄県工業指導所」(初代所長=安谷屋正量)を開設し、技術指導、新製品開発、業界組織の改善、強化、経営の合理化などにのり出したのである。ようやくその成果がみえはじめた頃、沖縄戦に突入し、その活動は中途で停止のやむなきに至った。しかし、その理念は、はからずも戦後復活されたのであった。

(3)、器物の種類と絵付の技法

つぎに近代に入ってから壷屋でつくられた器物の種類と絵付の技法について眺めてみたいと思う。

現在、沖縄県立博物館をはじめ、県内外の公私立の博物館や民芸館などに所蔵されている琉球の焼物を調べてみると、その種類の豊富さに驚かされる。

 記録の意味を含めてここに列挙しておきたい。

* 上焼物(施釉物)、

@、アラマカイ(飯碗)、

A、チューカー(茶家=急須類)、

B、湯のみ茶碗、

C、皿類、

D、ワンブー(深鉢類)、

E、アンラガーミ(豚油入れ)、

F、アンビン(水入れ)、

G、デーファー(り鉢)、

H、ミジクブサー(手洗鉢=女性用)、

I、チョーズバチ(手洗鉢=庭園用)、

J、トゥンダブン(東道盆)、

K、ウコール(香炉=仏壇用)、

L、コウール(香料用)、

M、チョージブル(T字風呂)、

N、ハナイチー(花生、これは仏間用と床の間用の二種類がある)、

O、シビン(尿瓶)、

P、ジーシガーミ(厨子甕=骨壷、屋型、壷型それぞれ数種類ある)、

Q、ユシビン(嘉瓶)、

R、ユーチュー(酒茶家)

S、カラカラ(酒入)、

21、ダチビン(抱瓶)

22、トナチビン(渡名喜瓶)、

23、ビンシー(瓶子)、

24、トゥックイ(徳利)、

25、カクビン(角瓶)、

26、ヒートゥイ(タバコ盆の火入れ)、

27、カタクチー(片口)、

28、扁壷、等々である。以上はごく普遍的な用途に限ったもので、特殊な、例えば、陶人形などがあることを付記しておきたい。

*、荒焼、(無釉焼締陶器)

 荒焼はあらゆる食物類の貯蔵容器が中心であった。なかでも酒ガメ類が圧倒的に多く、そのつぎに水ガメ類、味噌ガメ類、穀物入れのカメ類が大小様々につくられたのである。酒ガメ類は、大はモロミを仕込む2石物の「ムルンガーミ」をはじめ、5斗入れ、4斗入れ、3斗入れ、2斗入れがあって、これらは主として宮古、八重山向けの泡盛移出用の容器として使われた。1斗入れは本土向出荷用であった。そのほか、小は1合のマス壷から2合、3合、5合、8合、1什、2什など酒容器があったのである。上焼物とダブルけれども、荒焼のマカイ、チューカー、ワンブー、アンビン、デーファー、ミジクブサー、チョーズバチ、ウコール、ハナイチー、などがあり、また、フースー窯で焼かれたサークー(土鍋)、ヤックヮン(土瓶)、火炉(手あぶり)などがあった。

*、絵付技法(主として土焼について)

@、流し釉、A、線彫、B、赤絵、C、三彩、D、白土(又は釉薬)象、
E、トビカンナ、F、イッチン、G、染付、H、点打亀甲文、I、櫛目文、J、刷毛目文、K縞手文、L、市松文、M、盛付、N、掻き落し、O、掛分け、P、透し彫り、などがあげられる。

 さて、この中で、近代に入ってから、壷屋で生まれた技法は、前にも触れたが、成形面では扁壷、角瓶、置獅子などがあり、加飾技法の上からみると、盛付、掻き落し、掛分け、透し彫りなどであった。またこのような新しい技法の登場と共に、伝統的な形体でありながら壷屋で生産されなくなった器物も可成りの数にのぼった。その代表的なものが上焼では抱瓶や嘉瓶であり、荒焼では「ウニヌティ」と呼ばれた「シチゴータワカサー」や平底の一什徳利などであった。

(4)、壷屋における窯の種類

戦前の壷屋には、上焼窯、荒焼窯、カマグヮー、フースーグーヮーの四種類の窯があった。そのうち上焼窯と荒焼窯は本格的な登窯で、その規模は長さ15メートルから20メートルにも及んでいた。構造的には上焼窯が袋窯を数基連ねた連房式の登窯で、荒焼窯は袋なしの筒抜きの登窯であった。

上焼窯はいうまでもなく施釉物の日用食器類を焼き、荒焼窯では大物の酒ガメや水ガメあるいは食糧貯蔵用の無釉焼締めのカメ類焼いた。

カマグヮーというのわ小窯という意味で、荒焼窯をひとまわり小さくしたもので、無釉焼き締めのミジクブサー(婦人用手洗鉢)、小型の厨子ガメ、庭用手水鉢、屋根獅子、置獅子など比較的小さいものを焼いた窯であった。

 フースーグヮーというのは石灰窯に似たつくりで、低火度でアカムヌー(赤物)と呼ばれる素焼物を焼く窯であった。サークー(土鍋)、ヤックヮン(土瓶)、フィールー(火炉)などはこの窯から出たものである。これらの窯は沖縄戦直前まで使用されていた。

(5)、戦前の民芸運動と壷屋

日本民芸協会が設立されたのは1934年(昭和9年)6月であるが、それから6年後の1940年(昭和15年)、3月と12月の2回にわたって、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司等研究家や陶芸家が来沖している。目的は沖縄の民芸をはじめ、文化全般についての調査で、壷屋がその調査対象の中心に据えられたことはいうまでもない。

往時の壷屋は、先に述べたように外来陶磁器商達の強い影響下にあったとはいえ、まだ伝統的な生活習慣や作陶技術が残され、民芸協会一行に多大の感銘を与えたとのことである。

柳宗悦一行の壷屋来訪で壷屋はどのような影響を受けたであろうか。最も大きな影響は、民芸の観点から捉えた壷屋陶器の高い評価であり、それによって壷屋の陶工達が自信と誇りをとりもどしたことであろう。

とはいえ技術面での影響はほとんどなかったという。逆に壷屋の方が浜田庄司等に強い影響をあたえたといわれている。

民芸思想、民芸運動の影響が壷屋の陶器に強くあらわれてくるのは戦後になってからであった。

2、現代沖縄の陶器(戦後)

 (1)、壷屋の復興

 3ヶ月にわたって、雨のように降りそそいだ空爆、地軸をゆるがす艦砲射撃、より激しい地上での砲撃戦争等で、主戦場となった沖縄本島中・南部は、その山容も変わるほど完璧に破壊しつくされたのであった。

この地獄の彷徨から命からがら生きのびた難民達は、文字通り着のみ着のままの状態で難民収容所に収容されていった。そこでは衣服も食料も米軍からの支給に頼らざるを得なかったが、その量はわずかなもので、難民達は作業隊を組織してイモなどを掘ってきて不足分を補っていた。

更に収容所内の生活で絶対量不足しているのが日用食器類であった。難民達は、米軍が捨てた大小さまざまの缶詰の空缶やコーラビンなどを拾ってきて鍋釜や碗類の代用とし、皿類は空缶を切り開いてフチのところを体裁よくまげてつくったものである。また砲弾の薬莢なども火取などの容器に変貌していった。米軍が廃棄したあらゆるものが生活維持のために活用されたものである。

このような状況がつづく中、1945年8月に日本のポツダム宣言受諾により、太平洋戦争は終結し、沖縄でもこれを機に戦後最初の民間行政機関として沖縄諮詢会が中部の石川収容所で発足した。同諮詢会の組織は、総務、財政、法務、教育、文化、公衆衛生、社会事業、労務、商工、水産、農務、保安、通信、工務の十四部から成り、商工部々長に前述した戦前の沖縄県工業指導所長安谷屋正量が任命されたのである。

安谷屋部長は難民の生活をみて、日用食器類の生産が焦眉の急として、部長着任後およそ2ヶ月余の11月初旬に壷屋出身者を集めて、その中から男だけを60人を選んで先発隊として壷屋に送り込んだ。60人のうち陶工は20人位で、残りは復旧作業隊員であった。

このような事情で壷屋の移動は他の市町村よりもはるかに早く実施され、翌年の正月までにはほぼ完了していた。

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 1.土器時代
 2.輸入陶磁器時代
 3.琉球陶器時代
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