南蛮焼

   沖縄の魅力と歴史

沖縄の南蛮焼

南蛮焼について

南蛮焼の定義は非常にむつかしく、陶器辞典などをめくっても細かいところになると、不明瞭な点が多く、文化史や美術史の辞典類に至っては収録することさえひかえているようである。実はこの小論執筆に先だち、数冊の辞典類を調べてみたが、南蛮焼の解説は遂にみつけることができなかったのである。また、これまで書かれた南蛮焼の説明などを読んでもそのとらえかたに多少の相違点がみられたりして、その概念は時代差、地域差などともからんで流動的であるというのが現状のように見うけられる。

 しかし、狭義における南蛮、つまり、沖縄という地域に限定し、現時点でわれわれがいう南蛮については、かなり明確に捉えられていると思うので、それを起点にこの小論を進めてみたいと思う。

 南蛮という言葉自体は、歴史的にみると、中華思想の中に見られる東夷、西戎、南蛮、北狄の解釈による場合と、日本史の上で、江戸時代を通じて、オランダ以外の、ヨーロッパ人や彼等がもたした文物をこう呼ぶ場合の二様があげられるが、陶芸史の上では前者の解釈によっていることはいうまでもない。つまり、南蛮焼とは、広義では中国の南に位置する国々、すなわち東南アジア諸国でつくられた焼物ということになろう。しかし、今日われわれがいう南蛮は、さらに限定して、これらの国々で生産されたものでも、上質の磁器類をはぶいて、粗陶のみを指すことを通念としている。これらの国々の焼物は、元来中国の焼物の強い影響の下でつくられてきたもので、南蛮に因んで大きく分けると、南支那系と安南系とシャム系の三つに分けることができる。いいかえると、われわれが今日「本南蛮」と呼んでいる焼物は、大体この三つに分類出来るということでもある。南支那系のものを南蛮の中にいれるのは疑問をもたれようが、これは陶磁器研究家の間で、南支那の明窯で焼かれた粗陶を「支那南蛮」と呼び、中国本来の焼物とは別に分類していることによったためである。

 では、具体的にこれらの国々でつくられた焼物というのはどんなものであったか。またそれと琉球にもたらされた南蛮とどのようなつながりをもつかについて眺めてみよう。

 琉球にもたらされた南蛮の中で、最も貴重なものとされてきたものはシャム南蛮であるが、そのシャムの焼物について、セレベス島と琉球の古城跡から発掘された古陶瓷を分類考察した「南海古陶瓷」(伊東忠太、鎌倉芳太郎著、昭和12年版)によると、シャムでは13世紀後期に中国から陶工を招いて製陶を始めたことになっている。はじめはソコタイ(シャムの地方名)で築窯したが、後にスワンカローク(シャムの古都)に良質の土を発見して、そこに移り製陶したものと考えられている。このスワンカロークでつくられたものが、桃山時代から江戸時代初期にかけて、ルソン南蛮と共に、かなり本土に輸入されたらしい。それらは「スンコロク」又は「ソンコロク」と呼ばれ、陶磁器界はもちろん、とくに茶人の間で珍重されている。沖縄にも小壺類が伝世されており、現在県立博物館にも23点収蔵されている。さらに同書によってスワンカロークの焼成品をみてみると、素焼物と施釉物があり、施釉物には、青磁釉、白磁釉、黒褐色(◎◎◎)()茶褐色(◎◎◎)()、模様物などに分類されている。ソコタイについては、その窯跡から、「発掘されるものは、茶碗、皿が多く、水甕の破片、竜或は夜叉形の瓦手のものもあり、その陶土から原土を調べてみると、陶土は確かにスワンカロークのものよりも荒く、淡茶褐色を呈し、且つ之に白色の細砂が混入している。」と報告されている。ソコタイとスワンカロークで焼成された陶磁は大体似たようなものであったらしいが、前記の胎土の特徴から推して、沖縄にもたらされた「シャム南蛮」と呼ばれる甕類は、おそらくソコタイ釜で焼成されたものであろう。

 しかし、釉薬の上からみるとスワンカロークでもつくられたのではないかとも思われる。というのは、同報告書が出版された時点ではソコタイ窯跡の発掘品の中に、青磁や黒褐色(◎◎◎)()のものは一つも発見出来なかったと報告されているからである。沖縄に伝来したシャム南蛮の釉薬は、黒褐色、茶褐色、黄褐色の三種である。

 シャム南蛮と並んで、琉球に数多くもたらされたものに「呂宋南蛮」と呼ばれる大型の壺類がある。これは呂宋産という意味ではなく、呂宋伝来ということでこの名が付されているようで、その産地についてはまだ明らかにされていない。シャム南蛮が、総体的に、どっしりと重厚味があって、野趣を帯び、男性的であるのに対し呂宋南蛮は、総じて薄手につくられ、形もきゃしゃで、女性的で、もろい感じを与える。釉薬も同じ褐色系を用いながら、シャム南蛮は無限の美しい色感を感じさせるが、呂宋南蛮のそれは影に乏しい。このような特徴からして、呂宋南蛮は、あるいは安南系に属するものではないかとも考えられる。

 安南焼というのは、明代以降、ハノイ近郊のバッチャンというところで焼かれたものらしく、一般に中国の陶磁器より焼きが甘く、女性的だといわれている。本土や琉球にもたらされたものは染付が多い。

 いま一つ、沖縄に伝来している南蛮焼の中で、支那南蛮と呼ばれているものは、形も大方づんぐりして変化に乏しく、黄緑の釉薬も目止めの機能以外に何ら芸術的感興の湧かない下手ものであり、その意味で前二者に較ぶべくもない。特徴の一つとして焼ヒビなどを鉄で補修してある点があげられる。これはおそらく、1609年の島津氏の琉球入り後、中国以外との貿易が禁じられた結果、その後に沖縄にもたらされたものではないかと考えられる。

 さて、このような南蛮がいつごろから琉球にもたらされたであろうか。琉球が南東アジヤ諸国と貿易を始めた確実な年代は知られていないが、内外の史書などによってみると、察度王代の1389年に、倭寇にとらえられ、琉球に売られた朝鮮人を送還した際、朝鮮との国交に関心を寄せていた察度は、南方産の蘇木や胡椒を含む献上物を高麗朝に贈っているのが注目される。(高麗史)この史実からみて、この頃すでに南方の文物が入っていたものと考えられる。しかし、これが琉球自らの貿易によるものか、それとも、この期より半世紀ほども前から跋扈していた倭寇によってもたらされたものであるかは、なお疑問であるが、当時の歴史的背景からすると、おそらく後者であろう。

 また、南蛮甕と推定される焼物が、はっきりと文献の上でみとめられるのに、1460年朝鮮漂流民の報告が記録されている李朝実録がある。その中で御物城について、「江辺に城を築き、中に酒庫を置く、房に大瓮を排列し、酒醪盈ち溢る。123年酒庫その額を分書すり。」(琉球史辞典)とあり、その大瓮というのは、おそらくシャムかルソン南蛮であろう。酒醪というのは、字義からするとかすを漉してない酒、つまりどぶろくのようなものになるが、これがただ単に酒という意味なのか、字義通りどぶろくなのかはつまびらかでないけれども、単に酒という意味であるなら、シャムから輸入されたラオロン酒であろう。このような歴史記録のほかに、更に琉球のいくつかの古城址から発掘される南蛮の破片がある。これらはいうまでもなく輸入酒の容器としてもたらされたものであろう。山里永吉氏はそれについて、「それらの壺は古い時代、沖縄でまだ泡盛をつくっていなかった時代に、タイ国から烝留酒を輸入した時の容器で、その烝留酒のことを歴代宝案には香花酒とあるが、タイ国ではラオロンといっているらしい。」と説明しておられる。

 これらの南蛮は、室町末期から江戸初期にかけて本土へもかなり渡っていったようである。

 ここで注目すべき点は、本土に入った南蛮が数奇を愛した茶人の心を深く捉えて、日本独自の美感をもって賞翫されるようになったことである。そして、南蛮のもつ風趣は、ますます茶人の好尚を深め、本土の諸窯でもそれにならった茶器がつくられるようになったといわれる。いま手元にある柳宗悦著「丹波の古陶」や、石川県立美術館で最近出された「常滑の古陶」の図録をみてみると、茶器としての必然からか高さ一尺前後の小器にはなっているが、その作風は明らかに大型の呂宋南蛮や、シャム南蛮を倣作したものとみられるものが多数収録されている。これから推してみても、当初茶人達からもてはやされた南蛮というものは必ずしも後代の南蛮茶器にみられるような「自然にくずれた形」ではなかった筈である。

 このようにして本土に渡った南蛮は、本来の用途から離れて数奇の世界に入り、「自らの崩れたる形態により、花の美しさを生かして、すぐれたる花器となり、その土の佗しさに己が入るる水のうるわしさを高めて良き水差となるように、自己を無にして己の周囲と共に生きる」(京都博物館発行の「南蛮稚陶」の解説より)という特質をもって日本文化の中で新しい生命を与えられて今日に及ぶ。それは南蛮本来の姿から、遠くはなれたかにみえるが、広い意味では依然として南蛮であることにかわりはないと思う。

 では、琉球に入った南蛮は、どのようにうけとめられたであろうか。本土で数奇の世界でその意義が見出されたのとは相対的に、沖縄では、南蛮本来の用途以上に、実生活面で幅広く活用され、沖縄の陶芸史の上で大きな比重を占めるにいたるのである。つまり、これらの南蛮が刺激となって、広範な用途をもつ琉球南蛮がつくられたのである。琉球南蛮は、酒の貯蔵は勿論、穀類やその種子の貯蔵、味噌、塩、油類、その他塩豚、漬物類の容器として、また、水甕や藍壺、あるいは銭壺として、貴賤の別なく、あらゆる階層の人々の生活に密着し、これらの焼物を抜きにしては、琉球人の生活は考えられなかったといってもいい過ぎではない位、広く、切実な用途をもっていたのである。酒壺だけを例にとってみても、大は二石ものから、小は一合桝にいたるまで、各種の大きさのものがつくられたのである。去った大戦までは、このような壺や甕類がどこの家庭にも156個以上はそなえられていた。

 琉球の南蛮壺から発散される気は、素朴で、健康な生活の匂いであり、己を無にせず、ありのままに生きる姿の美しさであると思う。形而上的な、抽象の美ではなく、形而下の現実の生活の美なのである。したがって焼成の段階で、形が崩れたり、焼ヒビが入ったりして、陶工達の意表外に出た品物は惜しげもなく捨てられる。この捨てられたものを、日本独特の美感をもって拾いあげたのが茶人達であった。ここに同じ南蛮から出発しながら、まったく別の意義が南蛮に与えられていく分岐点をみることができると思う。

 琉球の焼物は素焼物を「荒焼(アラヤチ)」といい、施釉物を「上焼(ジョウヤチ)」といっているが、琉球南蛮と呼ばれているものは、素焼物の「荒焼」を指していることはいうまでもない。この荒焼が南蛮と呼ばれるようになったのは、山里永吉氏によると、大正時代からで、それも本土から流れこんだ名称だという。

 これらの琉球南蛮は、古くは古我地、喜納、知花、湧田等でつくられたものだが、1682年、今日の壺屋に統合されてから以降は、もっぱら壺屋で焼成されてきたものである。古我地窯蛮は、胎土や焼成技術に、はっきりと他の窯と違うところがみられ、また大方表面乃至は内側を鉄釉で施釉し、刷毛目を見せるなどの特徴をもっているため、その分類は容易であるが、初期の壺屋、喜納、知花になると、焼成技術も同一系統に属し、その分類は正直のところ混沌としているというのが現状ではないかと思われる。

 壺屋以前の古い窯の築窯についての確実な年代は知られていないが、文献の上で始めて瓦奉公を設置し、明人陶工を招へいして焼物をつくらしたという1588年以前からあっただろうということは、大方の先輩達の一致したみかたである。何千年も前に、かなり形の整った土器をつくり、須恵器を用い、また、145世紀頃高麗人から還元焼成の瓦の製法を学ぶと共に、南方産の陶磁類を多量に輸入した琉球人が、その期までまったく製陶の技術をもっていなかったとは考えられないからである。いろいろな角度からみて、少なくとも南方貿易が盛んに行なわれた尚巴志の頃には、製陶の技術も導入されていたとみるべきであろう。

 最后に、琉球南蛮鑑賞の一助としてそれについて最も造詣の深かった尚順男爵の南蛮についての随筆の一端を紹介してこの稿を閉じたいと思う。

 「偖、琉球の南蛮窯は最も変化に富み、厚手もあれば薄手もあり、紫、紅、赤、黄、苔、銀、鉄、鉛、黒の各色備わざるはなく、夫に光沢の強きものもあれば、焦渇して沢のない物もある。又肌地にも石弾貝殻の様な物が現われ又人工にてわざと作りし如き金気、鉄気の現わるる物もあり、千態万様其の標準は中々定め難いものであるが、先ず特徴として一番解り易い点は、指で弾けばけいのけん如きしょうの音を発し、摩擦する程よい色沢が出るのである。

 そして上物としては肌身がケンザリとしていて、硬度の高い気持がある。地には美しき夕焼色の中に紫鉄の焦渇せる気味を帯び、時に金気、銀気を現わし、・・・・・・・・・。

 中品はおもに黄褐色の中に鉄気を含み、光沢の尠なき物と多きものあり。上物に比ずれば景色の変化に乏しき憾みはあれども、この手の中にも、往々雅致に富める作品などありて、好事家に愛用せらるる向きも尠なからず、又時々柔らかい気持よき赤味を帯びる事もある。

 下物というは一見肉厚く、脆軟の気分あり、総体に屋根瓦の火色の如き鈍き赤味を帯び、光沢も相当あり、この種の中にも切溜形や、其の他花器に使用せられて、他県へ移出せらるる品物も尠なからざる様なれども、概してこのでの窯色の変化に乏しく、且つ肌あざの如き汚点を存するものも度々出ずるに因り、三種の中には何としても下級品たる事は免れないのである。」

 琉球南蛮の特徴が実によくとらえられ、的確に表現されているが、視点は茶人のそれだと思う。これに生活の面から捉えた琉球南蛮を咬み合わせつつ鑑賞すれば、より本質的な「良さ」が体得できるものと思う。

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