壷屋

   壷屋の村

壷屋焼

1.壷屋の村

 壺屋というのは、琉球の焼物のふるさとであり、メッカである。過去およそ300年間、上下の区別なく、沖縄人のあらゆる生活の中で用いられた、あらゆる種類の焼物をつくりつづけてきた村の呼称である。
そして、琉球の焼物の伝統は、実にこの壺屋で確立されたといっても過言ではない

去った大戦を境とした生活様式の変化は、いきおい壺屋にもその体質改善を要求するようになり、太い伝統に突きあげられた壺屋の陶工達も、技術面では戸惑いを感じながらも、その精神風土はまだくずしていない。つくられたものの用途はちがっても、無意識の手の動きの中に、壺屋焼の伝統はまだ生きつづけている。

琉球の焼物を知るためには、なにはともあれ、この壺屋を知ることから出発しなければならない。そのような意味で壺屋にスポットをあててみた。幸い、那覇市役所の市史編集室長の小橋川秀義氏が、壺屋の出身で、極めて貴重な資料を提供して下さったので、それを母胎として述べてみたい。

壺屋の位置と、その周辺の地形今昔
壺屋の村は、那覇市が次第に膨張していったために、今では、市のど真中に位置する格好になってしまった。イギリスの陶芸家バーナード・リーチさんが、はじめて壺屋を訪れた際、このような都市の真只中に、伝統的な窯や、古い石垣囲いの屋敷や瓦葺の家屋などが残っているのをみて、非常に強い感銘をうけていたとのことである。常に壺屋にいきつけている吾々の感覚では、至極あたり前のことであったが、リーチさんの感銘は、吾々の眠った感覚を呼び起す新鮮さがあった。

リーチさんのこの感銘は、おそらく目に見える有形の、古い窯や、石垣、あるいは家屋などだけでなく、それらを通して感知された伝統の太さや、重みであったに違いないと思われる。

リーチさんは、これを、保護策がこうぜられたために残されたと、とったのであろうか。おそらくそうではあるまい。伝統というものの強さが、このような環境の中でも、壺屋を残してくれたんだという感銘であったと思う。否、むしろ、逆に沖縄の人達は、かけがえのない大変な文化遺産を無造作に放っておいてあるということに対する驚きも含まれていたのではないだろうか。文化行政の面から一考を要する問題を提起しているといえよう。

壺屋は、戦前の那覇市の版図からみると、ずっと市の東端郊外にあって、県庁前から安里に通じる県道(今の国際通り)の東側やや奥まったところに位置し、今のグランドオリオン通りや桜坂中通りが、そこへ通じる主要道路になっていた。古地図などによると、それ以前、つまり、この県道がまだ建設されていない明治の初年頃には、十貫瀬通りから、牧志部落を経て、壺屋に入っていったようである。

往時の地形をみると壺屋の村は、丘陵の傾斜面を利用して、南に面してつくられ、東西に細長く伸びていた。前面、つまり南に久茂地川の支流になっているガーブ川を見おろし、背後に安里川が流れ、東は真和志間切の丘陵地帯、西北に牧志村をひかえていた。村の前後(ガーブ川流域―今の平和通りから神里原一帯―と安里川流域)は殆んど沼地帯で、人家はなく、別天地の観を呈していた。沼地をひかえていたということは、土をこねるのに必要な水が豊富に得られたと言うことも意味するもので、常に水に不自由がちだった那覇では、この一帯が窯を築くのに最も理想的な地域だっただろうと思われるのである。

曾ての壺屋は行政区画の上では泉崎に属し、那覇の大綱引のときなどは、東町や泉崎に加わっていた。

このように地理的にみた場合、往時の壺屋は、焼物作りの村として、実に理想的な位置を占めていたといえるのである。

  2.壺屋の歴史

 壺屋の村の始まりについては、歴史的に明確な記録が残されている。
18世紀中期に首里王府で編集した「球陽」という史書(琉球歴史の基本的な文献で、正史とみなされている)の巻の7、尚貞王15年(1683年)の頃に、「陶窯(トウユウ)(焼物の窯)ヲ牧志邑ノ地(今の壺屋)ニ移設ス。昔壺屋(ヤキガマ)アリ、美里郡ノ知花邑、首里ノ宝口、那覇ノ湧田等ノ地ニアリ。共計レバ三所、コノ年ニ至リ、ソノ三地ノ陶窯移シテ牧志邑ノ南ニアリ、以テ一所トナスナリ」(原文漢文、桑江克英氏訳)とある。

つまり、琉球では古くから、美里村の知花、首里の宝口、那覇の湧田3ヶ所に「壺屋」があったが、この年に以上の3ヶ所を統合して今の壺屋に移したという記録である。

このように3ヶ所に散在していた焼物の村を1ヶ所に統合したということには、それ相応の理由があったと考えられるが、それはいったい何であっただろうか。

それについての記録は残されていないが、まづ第一に考えられることは、首里王府が焼物に関して、従来よりもはるかに強い関心を寄せるようになり、統合によって、その管理指導を強化しようとしたところにあったのではないかという点である。というのは、尚貞時代に入ってから、首里城をはじめ、中山門、臨海寺、崇元寺等を瓦葺にしたり、焼物の技術修得に平田典通を中国に派遣したこと。さらにまた、御茶屋御殿(東苑)を造営したことなどは、必然的に焼物について目を向けさす背景を形づくっていたといえるからである。

それでは、統合の地が、何故すでに基礎ができ上がっていた湧田や宝口でなく、壺屋でなければならなかったのか疑問が残る。単に首里王府に近いというだけの地理的条件だけなら、湧田と壺屋では大差はないし、宝口の場合などは、むしろ有利であった筈なのである。その辺から探っていってみると、どうも窯を築く場合の立地条件が大きくかかわりあっているもののようである。

湧田は、海を前にしていたため、原料の土や、薪を運び込むにも、製品を琉球各地に送り出すにしても、有利な位置を占めてはいたが、水は必ずしも豊富とはいえなかった。また、今の地形から推して、荒焼の土も、殆んどその周辺からは採れなかったと思われる。もっとも、今日残されている湧田焼からみると、荒焼は殆んどみあたらず、上焼専門の窯だったともいえるが、それが、かえって統合の理由の一つとして考えられる。いいかえると、当時、荒焼が沖縄の人達の生活の中で占める比重が次第に大きくなっていったというみかたである。荒焼を専門にしていた美里の知花の窯が統合に加わったのもそのためではなかっただろうか。

首里の宝口はどうだったかというと、現在の地勢から判断すると、水が豊富であるという以外は、すべて条件はあまりよくない。

それでは、統合の地として選ばれた壺屋にはどのような有利な点があったか。まづ第一にあげなければならないのは、荒焼の土がその周辺から、ふんだんにとれたということである。

荒焼には、その基調となる黒土と、火度調整と艶出しのため混入される赤土が必要であるが、それが壺屋の周囲に豊富にあったということである。黒土のとれたところは、初めは現在の神里原あたりだけだったが、後代になると、壺屋の村の東裏側の現日野通りの北(佐久本医院周辺)からもとり、さらに現大道小学校の南側辺りまで伸びていったとのことである。赤土は、今の桜坂オリオンから同琉映館にまたがる一帯と、今の壺屋小学校一帯からとれた。特に、壺屋小学校のところは、壺屋の赤土採土地として、王府から与えられた御拝領地になっていたのである。昭和15、六年頃には、赤土も少なくなり、現在の安謝小学校附近から彩土するようになっていたとのことである。

交通の面からみると、上焼の土や薪などは遠く北部から船で運び、崇元寺橋のところで陸揚げし、そこからは馬車で運んだらしいが、崇元寺橋から壺屋までは、方言でいうと「チュヒサ」(一またぎ)の距離である。従って、原料を運び込むにも、製品を積み出すにも、泊の港をひかえ、非常に有利な地点にあった。

このように壺屋の周辺は、土と水に恵まれ、その上、交通にも便利であったということは、往時としては可能な限り考えた末の村づくりだっただろうと考えられるのである。

 いま一つ、壺屋の歴史で、言及しなければならないことは、当時の王府が、焼物づくりに積極的な政策を展開した裏付けとして、壺屋に御拝領地や御拝領窯を与えたり、また、陶工の中で、特に功績の大きかった者に対して親雲上(ペーチン)の位を与えて士族に列したりして優遇したことなど見逃してはならないことだと思う。

3.壺屋の窯の盛衰
 統合が首里王府の政策として行なわれたからには、当然王府が全面的に、壺屋の村づくりに関与したものとみてよいと思う。それを裏付けるものとして、御拝領窯〈又は公事(くーじ)(かま)〉があったことがあげられる。壺屋で今日でもいい伝えられていることだが、壺屋には七ヶ所の御拝領窯があったといわれる。(1ヶ所は現在)この7ヶ所の窯は、統合の際、当然王府がつくって与えたもので、それがまた、公事窯とも呼ばれていたところをみると、当初は、官窯としての性格が強かったといえる。これについて、壺屋の西側の村はずれに、「バンジュガー」(番所囲)というのがある。このバンジュガーについては、記録もなく、また、壺屋の古老達に聞いても、その由来がはっきりしないけれども、おそらく、壺屋の村設立当時、公事窯の管理指導のため、王府から番所を置いてあったのではないかと考えられる。

このように断片的な事実を拾い集めると、壺屋の出発は官窯だったといえないまでも、それに近い性格をもっていたということができる。
壺屋の窯の盛衰は、この七つの窯を中心に、需要の多寡によって、民間の窯が、ある時はつくられ、ある時はつぶれたりしながら、明治の頃まで続いてきたものであろう。

壺屋の村は、戦前、(いり)(あがり)に分かれ、酉は荒焼を専門に焼き、東は上焼専門であった。小橋川永昌氏の話によると、東には、御拝領窯は一ヶ所だけしか知られてなく、あとは全部荒焼窯ではなかったかということである。これは、往時の沖縄人の生活の中で、荒焼の占める比重が圧倒的に大きかったことを示すものであろう。

荒焼というのは、前項の壺屋周辺の陶土のところで述べたように、黒土に赤土を混入し、摂氏九百度位で焼き上げる素焼のことである。窯の構造も上焼きの袋窯とは違い、筒抜けになったトンネル窯を使う。壺屋以前の古い窯、例えば、喜名とか知花、あるいは古我地などで焼かれた荒焼には、鉄釉のかかったものも多いが、壺屋ではマンガン釉の外は使われていなかったようである。壺屋の古い窯跡から出る破片をみると、鉄釉がかけられているのではないかと思われるものがないでもないが、これが、艶出しの赤土が強く焼しめられて、うまく出て来たものなのか、鉄釉をかけたものなのかはっきりしない。

上焼は、いうまでもなく、上釉をかけたもので、摂氏千二百度位の高温で焼かれ、白焼ともいわれている。白焼というのは、白土で焼いたり、あるいは赤土の胎土に白土の化粧がけをしたところから生まれた呼称であろう。しかし、壺屋では上焼と呼ぶのが普通である。

上焼の窯では、主として日常雑器としての小物類を焼き、荒焼窯では水ガメや、食糧貯蔵用のカメ類などの大物を焼いていた。

荒焼の場合は、四斗以上も入る「マギムン」(大物の意)の甕類もつくるので、陶工は、自然体力や気力が要求され、気風も比較的荒かったようである。

この二種類の本格的な登窯のほかに、「カマグワーヤチ」の窯と、「フースーグワー」という規模の小さい窯があった。

本窯は、荒焼にしろ、上焼にしろ、長さ15から20メートル位の規模の大きい登窯になっているが、カマグワーヤチの窯は、荒焼窯を一段と小さくしたもので、素焼のミジクブサー(婦人用手水鉢)とか、小型の厨子甕、ティーシー(手水鉢)、その他屋根獅子や置獅子など、比較的小さなものを焼いた窯である。カマグワーヤチの窯までは火度は可成り上げることが出来る。「フースーグワー」は石灰窯の結構に似たもので、この窯で焼かれたものは、「アカムヌー」(赤物)と呼ばれ、低火度で焼かれ、あまり焼しめられていない。サークー(土窯)、ヤックワン(土瓶)、フィールー(火炉)などこの窯で焼かれたものである。

壺屋の陶工達は、この持ち窯によって、上焼屋(じょうやちゃー)荒焼屋(あらやちやー)(かま)小焼(ぐわーやち)赤物(あかむぬー)などと呼ばれていた。

壺屋の焼物に対する需要は、王朝時代を通じ、徐々に大きくなっていっただろうことは想像されるが、沖縄の人達の従来の生活様式や習慣から推して、それほど大きな変動もなく安定していたものと思われる。そうした安定の中で、自然に伝統というものが築かれていったものであろう。

ただ、近代に入って、明治の末期に、一大変動が、壺屋を訪れたことがあった。

それは、日露戦争を前後する頃で、沖縄で「物価騰貴」という言葉でさわがれ、農村では、砂糖の買占めで一攫千金を夢見た人達が、その後におとづれた不景気で、破産の憂い目をみた頃である。この景気の変動は、日露戦争とかかわりがあったようで、全国的なものだったという。

壺屋の場合も、やはり、この戦争とかかわりがあったのであろうか、荒焼の酒甕の需要が急に増え出し、つぎからつぎと荒焼窯が築かれ、その最盛期には、その窯数実に40ヶ所に及ぶ勢いだったとのことである。当然壺屋だけでは人手が足りず、農村から家族ぐるみで出稼ぎに来た人達も多かったという。当時の壺屋の景気は、「チブヤー、ウチナーヌ ハワイグワー」(壺屋は沖縄の中のハワイの意)と、さわがれ、羨望の的になっていたらしい。 

併し、砂糖の場合と同じように、やがて不景気の波におわれ、田舎落ちした窯主が続出したという。

おそらく、壺屋の荒焼の伝統的な技術が、この時期に可成りくずれたのではないだろうか、というのは、その後に焼かれた壺屋の荒焼は、焼も形も、古いのに比べてあまくなっているように感じられるからである。

この変動後の壺屋は、去った沖縄戦で二度目の大変動を迎えるまで、再び、静かな壺屋にかえっていく。

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