沖縄 |
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今日ではブロック建ての屋根にも屋根獅子を据えてあるのをたまたまみうけられますが、元来は瓦葺と不離一体の形をとるものであり、また茅葺にそれを用いた例はこれまで知られておりません。 これまでの歴史記録や古城址などから発掘又は採集された資料等によると、瓦葺に改められていく過程は城楼や寺社がその先駆をなし、ついで貴族の住宅、それから一般士族と進んでいったことがわかります。 反面瓦葺にする財力は充分持っていながらこの制限のためできなかった豪農たちがいたことも事実でしょう。 このような住居に関する制限が出されたのは1533年のことで尚清王六年にあたります。この頃の建築状態についてその翌年、つまり1534年に尚清王の冊封使として来琉した明国の陳侃の「使録」によると民家の瓦葺はわずかで、あとは皆粗悪な茅葺だったようです。 また球陽によると首里城を瓦葺に改めたのは尚貞王時代の1670年で、それまでは国殿や官室楼台すべて板葺であったことがわかります。 尚貞時代(1669~1710年)には首里城のほか臨海寺や崇元寺、宮古、八重山の公蔵及び桃林寺も瓦葺にあらためられています。 琉球で最も古い瓦葺があったと知られているのは浦添城であります。これは尚思紹王統(1406~1470)が起こった以前の王城で、その古城址から多量の高麗瓦が発掘又は採集されています。前述の首里城出土の瓦と同種のものであります。 浦添城に瓦葺の城楼が現われたのは、いろいろな史実からみて察度王代(1350~1396)ではないかと考えられています。この時代に始めて朝鮮と通交したことが史実にみえるからであります。(1389)察度王代というのは、また別の意味でも琉球文化に大きな転機をもたらした時代で、1372年に始めて明朝にも入貢し、1385年には琉球三山に海舟が与えられ、1392年には閩人36姓の渡来がありました。 察度王代はこのように積極的な外交政策を展開し、朝鮮、中国の文物がとり入れられ、在来の琉球文化に多くの刺激をあたえた時代でありました。 さて、以上述べてきた瓦葺よりも更に古いものがあるかどうかであるが、これについては依然製作年代に疑問を残している前述の英祖王陵内の石棺屋根の瓦葺をかたどった彫刻があります。これをいま仮に英祖王が墓を造った年代と同じだとすれば1264年で察度王代から約1世紀も古いことになります。 以上瓦葺の歴史の概略を述べてきましたが、これは瓦葺の建物が現われたからといって直ちに屋根獅子が用いられたとする意味ではありません。反面瓦葺に先行する板葺きの時代もあったことが史実に明らかであるので、この時代に屋根獅子とつながるものが全くなかったともいいきれません。 そこで、今日の屋根獅子を起点にしてそれに至るまでの過程を逆に辿りながら、その起源を追ってみたいと思います。 屋根獅子は素材の面からみると2種に分類できます。ひとつは屋根瓦の破片などを骨組にしながら漆喰で肉付けされた塑像で、今1つは陶製のものであります。 現存する屋根獅子の中で最も古いと思われるものが現在壺屋に2例残されています。 「前の屋」の石垣というのは石壁を兼ねたもので、その上に屋根を乗せたものであります。この石壁は石と土とで積み上げられ、当初は表面に漆喰塗装が施されていたとのことですが、最近になって風雨でそれが剥落し、獅子頭の残欠が石代わりに用いられていることがわかったとのことです。 では、さらに古いものに目を転じてみましょう。さらにふるいものというのは、これらの屋根獅子と同形式のものという意味でなく、それとつながりのある、いいかえると屋根獅子が派生したと思われる獅子像ということでります。 琉球における墳墓構築と厨子製作の歴史はそのまま琉球の人々の先祖の霊に対する信仰の深さを物語るものでありますが、反面それは琉球における貧困な住宅事情を微妙に反映させたところもあるように感じられます。 また墳墓についてもそのことわざに「かーらかやぶちや かりやどどやゆる、ふんしまちがねやいちむいちまでん」というのがあります。瓦、茅葺の家屋は仮の宿でしかない、お墓こそはいついつまでもという意味であります。 さて、この辺でまた厨子にもどりましょう。琉球の厨子は、わずかな特例―たとえば運天港古墳内の木棺等―を除いて、材質の上から大きく二種に分けられます。石厨子と焼物の厨子であります。 これを形の上からみると、石厨子には方桁造りと入母屋造りがあります。しかし、方桁造りは前に述べた「浦添ようどれ」のわずか数例に過ぎず、他はすべて入母屋造りでまたほとんど装飾は施されておりません。 焼物の厨子も形や焼方の上からまた数種に分類できます。これは一般に総括して「ジーシガーミ」と呼ばれているもので、ほとんど壺屋で焼かれたものであります。古我知窯でもかなり焼かれたらしいことは、その窯跡から出る破片でも知られています。 壺屋で焼かれたものは、素焼のものと釉薬のかかったものの2種類があり、壺屋では焼方の上から素焼を「荒焼」、釉薬を施したものを「上焼」と呼んでいます。 壺型は、装飾の施されたものを「カーラジーシ」、装飾のないものを「ボージャージーシ」と壺屋では呼んでいます。カーラジーシの名称はその質感から、ボージャージーシの呼称はその装飾のないところからでたものでしょう。 これらの厨子ガメの中で屋根獅子と関係があると思われるのは「ウドウングワージーシ」と「カーラジーシ」です。石厨子も潜在的にはつながりがあるとみられますが、ここではとりあげないことにしました。 琉球では厨子に卒去年月日と洗骨年月日をしるす慣習があり、これは研究家にとって都合のよいことであります。それを通してその厨子の製作年がほぼ推定できるからであります。 いま、沖縄県立博物館に各地から集められた厨子が70余点ありますが、石厨子を別にしてウドウングワジーシと呼ばれているものを調べてみると、上焼よりも荒焼のものが比較的に年代が古いです。 これが百年前後のものになるとこれまでの形式を基礎にしながらも、屋根の形態も複雑になり、装飾もやたらと増えてきます。たとえば厨子ガメ全体を3層に型どり、その12の隅棟先端にそれぞれ獅子面を配するだけでなく、胴部の中央上部にも獅子面を置くなどであります。これらの獅子面の数は、最上部の下り棟上2対のほかにであります。 このあたりからはっきりと厨子ガメにおける獅子面が装飾としてばかりでなく、魔除けとして強く意識されながら用いられたことがうかがえると思います。すなわち、今日的屋根獅子への転身の過程の一端がのぞかれるというわけであります。 ここで想起されるのは壺屋で焼かれた前述の屋根獅子でしょう。壺屋の陶工達の話によると、屋根獅子の古いものは「チブルシーサー」と呼ばれ、胴体はなく、頭部だけのものだったとのことであります。 このことを裏付けるかのように厨子ガメの屋根の形態や装飾が更に変化していくことが注目されるそれは明治の末期から大正、昭和の初期頃につくられた厨子ガメの屋根前面中央には蹲居形の獅子像を据えてあることであります。 カーラジーシの場合は、形が壺型であるため、屋根を写実的にかたどることは出来ませんが、象徴的に方桁造りの瓦葺をあしらった陰刻が蓋に施されています。その蓋の周囲に4乃至は6つの獅子面を配し、前面中央に龍頭を据える形式であります。身の方もその9分目位のところで襞褶を出し、それに瓦葺屋根の陰刻を施し、4方に向けて獅子面を配してあります。博物館にはこの種のカーラジーシで1850年代のものが4,5基あつめられています。 このように厨子ガメに獅子面(ここでちょっと留意していただきたいことは、これまで獅子面という表現をとってきましたが、これは普通にいう面の概念ではなく、獅子頭ともとれる半立体的なものであるということであります)を配するというのは、前にも述べた通り王宮や寺院にならったことは自明であり、その形式上の具体的な発想は首里城正殿によるものでしょう。それはさらにさかのぼって、首里の「玉陵」の塔上獅子一対にもつながるものと考えられています。 また、「浦添ようどれ」の石棺屋根獅子群もみのがせません。これについては前にもふれてあるのでここでは省略しますが、ただ、この石棺の屋根獅子配置の様式は古いものには例がなく、まったく独自の位置を占めているということだけを指摘しておきます。屋根獅子とのつながりもまだまだ究明する余地があり、またこれらの石棺全体についても多くの研究課題が残されています。 さて、屋根獅子の起源について、これまで述べてきたものをまとめてみますと、屋根獅子の起源と形式の上でつながりをもつものとして、王宮や寺院又はそれを型どった厨子ガメに附帯する獅子面があるということと、今日の屋根獅子の様式があらわれたのはそう古くはなく、大体18世紀後期から19世紀初期にかけてではないかと推定されるということであります。 なお、ここで漆喰型像についても触れるべきでありますが、その発生は焼物のあとだとみられる点がありつぎの「様式」や「つくり手」の頃でその都度とりあげていきたいと思います。 |
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