琉球陶磁器

   琉球の焼物の歴史

琉球の陶磁器

3.琉球陶器時代

 琉球陶器時代という時代区分は、先行の輸入陶器時代に対する相対的な時代区分で、自家生産の時代という意味が含まれている。

 これまで、述べてきたような理由から、琉球では、16世紀の中期頃まで、土器から、更に一歩進んだ陶器はつくられていなかったといえる。しかし、海外貿易を基礎に、政治的にも、経済的にも、社会的にも落ちついてくると、国内の美術、工芸その他の文化面の向上に意を用いるようになるのは自然の理で、16世紀の後期になると、その気配がうかがわれる。琉球史で初めて瓦奉行職が置かれた記録がみられるのである。

 「球陽」の尚永王(在位1573年〜1589年)の頃に、

「附、萬暦年間、(をう)永沢(えいたく)小橋川(ぺー)雲上(ちん)考紹瓦奉行職ニ任ズ、陶瓦並ニ焼瓷等ノ項ヲ総管ス、近世ニ至リ別ニ焼物奉行ヲ設ケ、各ソノ事ヲ管ス、
 昔、中国ノ人アリ、来ツテ此国ニ至ル、地ヲ国場邑ニ(ぼく)シ、初メテ第宅ヲ開イテ栖居ス、即チ陶窯ヲ真玉橋邑ニ造ル、恒ニ瓦ヲ焼キ、以テ家業トナスト云爾。」
というのがそれである。
 この記録を読むと、尚永王の萬暦年間というのは、その即位が萬暦元年、つまり西暦の1573年にあたるので、退位までの17年間(西暦1589年)までの間という意味であろう。

 ここで注目すべき点は、「陶瓦並ニ焼瓦等ノ項ヲ総管ス」というところである。 「陶瓦」は、屋根瓦を意味することは間違いないと思うが、次の「焼瓷」というのは、焼物には違いないけれども、いったいどんな焼物であっただろうか。

 「瓷」という字の元来の意味は磁器のことである。しかし、この頃、沖縄で磁器が焼かれた筈はない。私は、これを、その頃の時代背景から推して、かなり強く焼き締められた素焼の陶器、すなわち今日「荒焼」と呼ばれている焼物だったと解釈している。

 そして、奉行職をおく位であったからには、それ以前の久しい前から、すでに数ヶ所に窯が出来ていたものと解釈している。

 この解釈の裏付は、今日知られている山田、喜名、知花、古我地等の古窯跡の上限がはっきりしないことと、それらの古窯跡から出る陶片によるものである。

 私は、この記録を中心とした琉球陶器の時代を、前期として区分し、以下を次号で検討してみたいと思う。

 琉球は14世紀中期に入ると、3つの大きな政治権力によって分割されていた。南部の「南山」、中部の「中山」、北部の「北山」がそれで、その首領たちはそれぞれ明の太祖から王の称号を与えられ、独立した王国を形成していた。これを琉球史上「三山時代」と呼び、三山とも明の冊封体制をうまく利用して、大交易時代に突入した時代であった。

 このころの古城跡からおびただしい数の中国、安南、シャム産の古陶磁の破片が検出されているが、それらに混じって地元産の土器片や、かなり焼き締められた無釉の陶片等も発掘されている。

 これらの土器」が、いわゆるグスク時代土器で、一方の無釉焼締め陶片が琉球で本格的な陶器がつくられはじめたことを示唆するものである。

 琉球では大交易時代を通してあらゆる工芸技術が導入されるが、製陶」の技術もまた例外ではなかった。しかし、大交易時代の前半期、つまり三山時代は「技術」というより「物」の輸入に重点がおかれていた。

 南山の一角から興った尚巴志は、1405年に中山を、1416年に北山を、1429年には南山を討って琉球三山を統一し、尚巴志王統を立てた。巴志は従来の対明貿易だけでなく、さらに遠くシャムやジャワにまでその貿易版図を拡大していったのである。巴志は中国に対すると同じくらいの関心をシャムの交易に寄せ、その在位中、毎年のように交易使臣を派遣している。史書を追ってみると、この時代を起点として「物」に加えて「技術」が導入される。製陶技術が入ってきたのも、ほぼこの時代とみて誤りはないと思う。

 というのは、今日伝えられている琉球の古陶を調査してみると、その成形や加飾技法にシャムのスンコロクやスコータイ窯の技術を彷彿させるものがきわめて多いからである。

 このあたりの事情と関連させて、アメリカの東洋史家、ジョージ・ ・ケア博士は、じつに興味ある次のような推測をしている。

「タイのスンコロクが、1460年と1474年の二度にわたる戦乱にまき込まれたさい、そこの陶工たちは大急ぎで避難したらしく、後代窯が発見されたときは、火入れしていない生地のままの器類が窯積みされたままになっていた。このとき避難した陶工たちはふたたびこの地に戻ることなく、いつしかジャングルにおおわれ、発見されたのもつい近年のことであった。スンコロクを去った陶工たちの中で、琉球の北山王の招聘に応じたものはなかっただろうか」というのである。

 この推測は、北山おうを中山王に置き換えると、時代的には尚巴志王統後期に当たり、じつによく符号している。この王統時代に現れた誤佐丸という大名が、その居城であった山田城の城下に陶窯を築かせ、さらに領地替えで読谷村の座喜味城に移ったときにも城下に喜納窯をつくったということは、研究家の間では一致した見解となっている。これはスンコロクの廃窯より数年前になるので、ただちにそれと結びつけるわけにはいかないが、その前後の状況として注目すべき点であろう。

 琉球の古窯趾は、この山田窯や喜納窯のほか、喜納窯から分立した知花窯、首
里の
宝口(たからぐち)窯、那覇の湧田(わくた)窯、北部の古我(こが)(ち)窯、同じく作場(さべ)窯が知られているが、これらの開窯については決め手となる文献はない。これらの窯で焼かれた伝世品や、窯跡から発掘される陶片等を通して判断すると、シャム系の技術が最初に導入されたといえる。

 琉球の焼物について文献の上で明確な記録が見えるのは、首里王府編纂の史書『球陽』の尚永王(在位1573〜1589年)の頃に「萬暦年間、汪永沢小橋川親雲上孝紹ヲ瓦奉公職ニ任ズ、陶瓦並ニ焼瓷陶ノ項ヲ総管ス、(中略)昔、中国ノ人アリ、来ッテ此国ニ至ル、地ヲ国場邑ニ卜シ、始メテ第宅ヲ開イテ栖居ス、即チ陶窯ヲ真玉橋邑ニ造ル(後略)」とあるのが最初である。

 この記録を見るかぎり、琉球の陶業のルーツは中国ということになるが、伝世品や発掘陶片によって考証されるのはシャム系といわざるを得ないのである。

 とはいえ、この記録は、中国からの技術導入もあったことを示唆するものとして解釈すべきであろう。

 これまでが、いわゆる「琉球陶器時代」の前期の荒焼時代である。

秀吉の影響が琉球陶器にも

その後、琉球の陶業が大きな転機を迎えるのは薩摩の琉球侵攻以後であった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の結果として、朝鮮のすぐれた焼物技術が日本にもたらされ、革命的な発展を遂げたということは周知の事実であるが、その余波は琉球にもおよんだ。

薩摩の琉球侵攻があってから八年後の1617年に、秀吉の文禄の役で、すでに薩摩に移住させられていた朝鮮陶工のうち、16、一官、三官の三陶工が、琉球側の要請で渡米したのである。彼らは那覇の湧田に工房を構え、今日、沖縄で「上焼物」と呼ばれている施釉物の陶技を伝えたのであった。

これにさらに磨きを加えるため、1671年には、首里王府によって平田典通という陶工が中国に派遣され、より進んだ陶技を伝えたのである。このとき赤絵の技法も入ってきた。

この時代が琉球陶器時代中期に当たり、技術導入の時代である。まだ琉球陶器の伝統は確立されていなかったとみるべきであろう。

琉球陶業史のうえで、次にやってきた大きな変革は、首里王府の政策による壺屋の創設であろう。これまた『球陽』に徴すると、尚貞王35年の項に、「琉球では古くからあった各地の窯を現在の壺屋に統合した」となっている。これはおそらく首里王府の焼物生産の合理化政策の結果であったと考えられるが、ここに琉球焼物のメッカ壺屋が誕生したわけである。

これ以降が琉球陶器時代の後期、つまり伝統確立の時代に当たる。

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