琉球の焼物輸入陶磁器

   琉球の焼物の歴史

輸入陶磁器

2.輸入陶磁器時代

 琉球が永い原始時代から抜け出て、歴史時代に入るのは、10世紀頃からである。琉球歴史の上では按司時代として区分され、琉球各地に、その按司の居城としての城が築かれた時代である。因みに、今でもその頃築かれたものと推定されている古城址が全琉で百余ヶ所も知られている。

 按司というのは、武力を背景にして支配権を握った集落の首長のことで、後代では体制化されて大名の性格をもつに至ったものである。

 このような按司の出現は、政治、社会、経済史は勿論、文化史面でも極めて大きな意義をもつもので、政治面では武力闘争による支配権のうばいあいから封建体制の確立につながり、社会面では支配階級と被支配階級の出現乃至は分化を意味し、経済面では支配権強化のための活発な経済活動が展開されていくことに意義があるのである。

 この最後の経済活動が、琉球の文化を大きく決定していった。つまり、琉球はこれといった産物がない。農業の開発をしようにもこれまで使ってきた土器や石器では埒があかない、勢い目は外に向けられていく。ここに外部との接触が始まり鉄が入り、陶磁器が入ってきて琉球の文化は急速に進展をみせるのである。

 それ以前、すなわち7、8世紀頃から中国や日本の史書に琉球のことが散見されるので、多少の交流はあったと考えられるが、それらは殆んど偶発的なもので、やはり意図的に動いたのはこの按司時代に入ってからであろう。

 しかし、この意図的な交流にしても、その前の偶発的な交流が遠因となっていることは勿論であり、従って、その意義も決して軽くはない。

 ここに土器時代から輸入陶磁器時代への移行の過程をみることができると思う。

 もっとも按司時代の初期は、闘争に明け暮れ、外部との本格的な交流は、各地に分立していた按司達が3王国(中山、南山、北山)に統一され、政治的にやや安定してからであった。具体的にいうと察度王の時代(在位1350〜1396)に入ってからである。

 それについて、「球陽」という首里王府編集の史書の、察度王の項に次のような興味ある記録がある。

  察度王『23年(西暦1383年)明ノ太祖使ヲ遣ハシテ招撫(ショウフ)ス、誠ヲ投シ、?(カン)(イ)レ(他国によしみを通ずる)以テ中国ニ通ズ。―中略―

王、其詔ヲ受ク、即チ弟泰期ヲ遣ハシ、表ヲ泰シ、臣ト称シテ方物ヲ貢ス、太祖、王ニ大統暦及ビ金織文綺(あやもようのある絹)ノ紗羅各五疋ヲ賜フ、―中略―コレニ由リ琉球始メテ中国ニ通ジ以テ人文維新ノ基ヲ開ク、』

『太祖、瑠求ノ字ヲ改メテ琉球ト曰フ』とあり、さらに同27年の項に、

『太祖、刑部(司法官)侍郎(中央行政府の次官)李浩ヲ遣ハシテ国ニ至リ、馬及ビ硫黄ヲ市フ、コノ時国俗市易ハ、?綺(クワンキ)(白絹と綾絹、ぜいたくな衣裳)ヲ貴ハズ、惟磁器鉄釜ノミ是レ尚ブ、李浩帰ッテ之レヲ言ス、次後ノ市易多ク是物ヲ用フ』とある。(原文漢文、桑江克英氏訳)

 これを、今少し、くだいていうと、琉球では西暦1383年に初めて、中国と正式な外交関係(形式上の主従関係)を結び、貢物をもっていったらおかえしに、明の太祖から大統暦と綾模様のある絹布を賜った。それから四年後の一三八七年に、明の太祖は司法官で中央行政府の次官である李浩という人を琉球につかわして、琉球産の馬や硫黄を仕入れた。この時の取引で琉球の風俗では白絹や綾絹といったぜいたくな品物はよろこばれず、陶磁器や鉄釜がよろこばれた。李浩は帰ってそのことを伝えたら、その後の取引には大方陶磁器や鉄釜をもってくるようになったという記録である。

 まだ土器しか使ってなかった往時の人達の生活からすると、綾入りのぜいたくな絹布など、二の次で、自分達の土器とは比較にならないすばらしい、磁器や鉄釜が、目前の生活必需品として求められたことは当然のことであっただろう。

 このような状況のもとで、相次いで南山、北山が明に入貢し、進貢という名目で中琉貿易が展開され、ぞくぞくと中国の文物が入ってきた。その中でも陶磁器が大部分を占めていたことはいうまでもない。しかし、その恩恵にあずかったのは城を構えた按司達とその一族郎党のもので、庶民は依然として土器の生活を余儀なくされていたであろう。というのは、沖縄本島では、城と名のつくころからは、ほとんど、中国の陶磁器の破片(青磁が圧倒的に多い)が出土するが、庶民の集落からはみつからないからである。併し、八重山地方は違う。ここは、中国と地理的に近いという有利な条件もあってか、独自の貿易を営んでいたようで、石垣、西表の主要な島だけにとどまらず、小さな島々に至るまで、いたるところに青磁の破片が散らばっており、輸入陶磁器が上下の差別なく広範に使われていたことを示している。

 もう、かれこれ十年余になるが、筆者は、琉球歴史研究家のジョージ・H・ケア博士と共に八重山の文化調査に参加したことがある。その際、名蔵湾を始め、各地から2、3百キロに及ぶ青磁その他の破片を集めてきた。(それは現在沖縄県立博物館とホノルル美術博物館に資料として保管されている)。それを、約一週間にわたって、小山富士夫先生に時代、及び窯の分類をしていただいたが、それによると殆んどが明初期のもので、竜泉窯で焼かれたものであるとのことだった。わずかに南宋末から元初のものが混ざっていた。これは、沖縄本島の各古城址から蒐集された青磁片にもほぼ同じことがいえるとのことで、前述の「球陽」の記録を立派に裏付ける鑑定でもあった。

 沖縄本島で、青磁片が多量に出土するのは、当然のことながら、御物(おもの)(ぐすく)跡と首里城址である。ついで勝連城址があげられる。無論、その他の百余りの古城址も出土量の差こそあれ、青磁片の出ない城はないといっていいぐらいである。

 御物城というのは、那覇港の奥の、中央部あたりの岩礁上に、高く城郭を廻らしたところで、ここは城というより、首里王府の海外貿易専用の公倉であった。その創建年代ははっきりしないが1450年代の古地図にも出ているので、少なくともそれ以前に建てられたものといえる。

 この、御物城について、李朝(りちょう)実録(じつろく)に次のような記録が残されている。これは、琉球に漂流した朝鮮人が、1460年に帰国後報告したもので、貴重な歴史資料として学者間でよく研究されているものである。すなわち、

「江辺に城を築き、中に酒庫を置く、房内に大瓮(おおがめ)を排列し、酒醪(しゅろう)ち溢る。1、2、3年酒庫其額を分書せり、又軍器庫を置き、鉄甲、槍剣、弓矢、其の中に充満せり」(原漢文)―南東風土記より―

 とあり、往時の海外貿易の状況が手にとるように解る。房内にある大瓮というのは、これまで沖縄に伝世されている本南蛮甕等から推して、シャム南蛮ではなかったかと考えられる。酒は、琉球の海外貿易品が記録されている「歴代宝案」という本に香花酒と記載されているシャム産の酒(シャムではライロンと呼んでいるという)であろう。また、軍器庫の武器類は、その頃は日本から輸入し、中国に輸出していた。日本には、中国や南方諸国の産物を出し、往時の琉球は、全アジアを股にかけた海外貿易によって繁栄し、それらの文物をとり入れながら、独自の文化を築いていったのである。

 筆者は一昨年、この御物城の調査にも参加したが、おびただしい数の陶磁器片が地中に埋まっていた。この一ヶ所だけでも全琉の出土量と匹敵する位の量があると思われた。那覇港浚渫時(戦前にも、また戦後も)に、その周辺の海底から、破片と共に完全品もいくつか出ている。(戦後出たのは県立博物館にある)

 このように中国の青磁だけでなく、安南、シャムあたりの焼物も多量にもたらされたことは記録でも、実物でも証明されている。

 前にも述べた通り、技術的に余りにもかけはなれた外国の陶磁器がこのように大量にもたらされたのであるから、地元の焼物が萎縮してしまったのは自然の成り行きというものであっただろう。

 ここで、ひとつ当時の琉球の焼物の後進性ということについて、琉球文化の本質といったものと関連させながらつけ加えておきたいことがある。何故、琉球の焼物は、中国と比較してこうもおくれたのであろうか。比較すること自体、こっけいに感じる程であるが、筆者は、それをそれぞれの文化の本質に帰するものだと解している。その文化の本質というものは、その文化をつくり上げた人々が住んでいる自然環境と密着し、その制約の中に求めることができると考えている。

 中国の文化史を眺めてみると、中国文化の本質は陶磁器にあるといってもいい過ぎではないような気がする。それに対し、琉球文化の真髄は石造物にあり、石垣(城郭)にその原点をみることができる。

 これは、琉球が豊富な石材に恵まれていたという自然の条件によるものであろう。琉球人は古くから石を巧みに使う才能と、石に対する愛情と、石で生活を守る知恵があった。石で城を築き、屋敷を囲い、門をつくり、畠を囲い、石壁を造り、石の豚舎をつくった。また、道は面取りした石をちりばめて、美しい石畳道にし、川には石橋をわたした。墓も、納骨用の厨子も拝所も殆んど石造りである。生活用具も砂糖車を始め、ひき臼、つき臼、イモ洗い用の石桶、漆喰をこねる臼、家畜の飼料入、手洗鉢等数え上げたらキリがない。

 琉球の彫刻もその殆んどが、石材彫刻なのである。

 このような民族的な特質と自然環境が結合して、後代、外来の研究家達を瞠目せしめた石材建造物がつくられていったのである。戦前国宝に指定された二十四件の沖縄の古文化財中、12件が石材建造物であったことをみれば、如何にその比重が大きいかを知ることが出来ると思う。

 このように古代沖縄人の才能は、その自然環境との関係から、焼物造りよりも石の利用に発揮されたことを見逃してはならないと思う。

 因みに日本の場合はどうであろうか、日本の場合も中国の焼物に比較すると遥かにおくれていた。例えば、中国では六朝(りくちょう)時代(4世紀初期〜6世紀後期)から磁器がつくられたといわれるが、日本では1000年もおくれて、江戸初期に入ってからであった。それは、日本文化の本質が、やはりその自然環境とのつながりで木造物にあったためではないかと考えられる。世界でもめづらしいとされている古代木造建築はいうまでもなく、仏像等にみる木材彫刻、生活用具では、絶対的に比重の大きい漆器をあげることができる。

 中国文化の本質が、陶磁器にあるとすれば沖縄は石材文化であり、日本は木材文化であるといえないだろうか。

 従って、はじめから、焼物だけをとって比較するということは、何か文化というものの解釈の上で大きな誤りをおかすことになりかねない。そのような視点に立って、更に前へ進んでみよう。

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 1.土器時代
 2.輸入陶磁器時代
 3.琉球陶器時代
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